• 日笠山家に関することをまとめたHPです。

日笠山家の歴史

 『永利郷土史』によると、「慶長19年(1614年)、川内地方の山田郷(旧永利村の一部)において、井上氏対日笠山・春山・原田氏の間に騒擾(そうじょう)があり、山田郷の押(鎮撫役)として赴任した愛甲五郎左衛門が、公儀の審理・判決がないままに日笠山氏・原田氏など13郷士を甑島に遠島(おんとう)とした。そのため事後、余党互いに満目しあい、益々紛擾を極めた」と記されています。
 これを簡単に説明すると、まず永利城の家臣に、『日笠山』を名乗る武士がいました。日笠山派と井上派が、1614年(慶弔19年)永利城下の武士の間に、鹿児島城下(薩摩藩の藩主がいたところ)から争いを押さえる役人(愛甲)が来て、藩の命令を待たないで争いの一方、日笠山派の春山・原田などと共に、甑島の里に移されたということです。
 その後、日笠山氏は里の八幡神社、甑島金島の神主の頭取(リーダー)となって現在に至ります。

*騒擾(そうじょう)
 騒ぎ乱れること。騒動。(広辞苑 第四版)

日笠山家は平家の一派だった!?

日笠山家は元来平家の一派であったとされています。
平家の秩父氏の中に、渋谷氏(今の渋谷区周辺を支配していた)がいました。彼らは鎌倉幕府から薩摩へと地頭職として派遣されました。そして派遣先の薩摩で子供五人にそれぞれ土地を分け与えました。(高城氏、祁答院氏、黒木氏、鶴田氏、入来院氏などに土地を治めさせました。)
このように、日笠山氏がいた薩摩川内市周辺(北薩摩)を渋谷氏が治めていたため、日笠山家は平家の一派であったといえます。
また、その関係を記す資料が、日笠山家が代々神主を務めていた八幡神社に残っていました。