• 日笠山家に関することをまとめたHPです。

日笠山家と神道

神官として島全体の祭儀を司る日笠山家

 渡島以前の日笠山の先祖は、永利の日笠神社の神官を勤めながら、川内新田神社にお勤めしていたものと考えられます。渡島して40年後の承応4年(1655年)に、日笠山氏に対して甑島のすべての祭儀を司る社家頭取(しゃけとうどり)としての裁許状が付与されたという公文書が残っています。
 この裁許状は、社家頭取の代替わりごとに京都の神祇菅領(じんぎかんれい)などから受けたもので、6通あるということです。そのうち里村の八幡神社に「明和9年5月22日付『神道裁許状』」(1722年)など5通が現存しています。(約60センチ×45センチ)
 甑島の日笠山氏は、上甑島・下甑島の各浦々の神社の祠官(しかん)を勤め、里村の日笠山氏(本家)が上甑島の社家頭取、手打の日笠山氏が下甑島の社家頭取を勤めていました。また、上甑村平良の西山氏は、日笠山氏から改姓し移住したといわれています。その西山氏によると、曾祖父の代(明治以前)に、愛宕神社 の宮守(みやもり)をしていたということです。詳細は不明。

こんなにあった!甑島の神社

◎八幡神社(新田八幡宮)
 里村麓に、川内新田八幡宮の祠官宮里壱岐が、御分霊(ごぶんれい)を奉斎した(嘉祥2年)とされている。創建は、鎌倉初期の嘉禄2年(1266年)という説がある。祭神(さいじん)は、ニニギノ尊。祭祀は9月19日内侍舞奉納。
 また、宮里壱岐の子孫、日笠山氏との関係は定かではない。 

◎講元大明神(里村市之浦)
祭神は定かではない。承久の乱(1221年)後、鎌倉幕府の地頭として小川氏が始めて当島に渡海の時、市之浦に着いて暫く滞在ののち、里村に治所を定めるとある。牧場跡がある。例祭は毎年の9月24日。神職は西山某(八幡宮脇社司)内侍舞奉納。

◎新田神社(八幡新田宮)
下甑村手打麓にある。祭神三座。「神功皇后・応神天皇・玉依姫」三國名勝図会(ずえ)に、当社天文4年(1535年)の棟礼に、水引八幡新田末宮を勧請すとある。下甑村の宗廟で例祭9月19日。
 神職は日笠山某「手打邑に鎮座す云々……勧請年紀伝はらず。社司日笠山織衛造立の棟礼を納む。大檀那日奉義孝(おおだんなひまつり)」日奉は小川氏の先祖日野氏。

◎甑大明神
 中甑串瀬戸にある大岩。祭神定かではない。海神の説がある。

◎御嶽権現
 里村の牟礼岳にある。例祭は6月24日。

◎鹿嶋大明神
 下甑島蘭牟村にある。社司日笠山川内